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アート×テクノロジーを考える。〜オランダの試みから〜

人はそれぞれライフサイクルがあって、強引だけど、ある程度のカテゴリ分けができるのかもしれないし、それぞれのライフサイクルに合わせたテクノロジーの活かし方がある、ということを学んだ。

以下の参考サイトに記載の施設は、認知症患者だけが住める施設。一般的な医療施設を営んでいたが、利用者から「生活していない感じがする」という声が挙がったので、改革に乗り出したようだ。

デザインの観点が強いかもしれないが、そこに住む人たちが、自分なりのライフスタイルを確立して、仕事や創造的な行動などまで展開できているとしたら、ある意味アートと言っても良いのではないか。

以下の文章が印象的だった。

「私たちのやり方をそのまま真似るのではなく、自国の文化に合う形に置き換えていってほしいと思います。経済レベルや家族構成、仕事の内容、学歴などによってライフスタイルはさまざまです。その違いはとても大きく、『すべての人たちを一つのグループに押し込めても大丈夫』という単一社会は存在しません。多様性に焦点をあて、おのおのの生活パターンに近い形で過ごせる環境をつくる。認知症の人にとって、とくに重要なことだと思います」

参考サイトから引用

Web3やDAOが主流になる世の中では、今よりも個々人の考えやライフスタイルが尊重されるし、遠慮なく発信した方がより強いつながりを構築できるはずだから、もはやカテゴリというものは存在しなくなるとも思う。

この施設は、その先駆的な取り組みをしている気がする。勉強になった。

参考サイト

【Yahoo! Japan SDGs】スーパーも映画館もある、認知症患者だけが暮らす「街」―「普通に暮らしている感覚」を提供するオランダの試み

アート×テクノロジー|「野生の思考」の解説を読んで。

レヴィ=ストロース「野生の思考」を中沢新一氏が解説している100分de名著を読んだ。

正直、難解すぎて理解できなかったが、レヴィ氏の言う「構造」というものがどういう概念・考えなのか、ということは、人間の顔と魚を方眼・バランスで表現した図を見てからほんの少しだけ理解できた気がする。

理解できないままでも思ったことは、未開人や先住民たちが自然界をよく観察して、そこから真理を追求してきたということが、現代社会に当てはめるならアート×テクノロジーなのだな、という事だ。

全ての学問が「真理を追求するためのカテゴリ・プロセス・アプローチ・観点の違いなだけ」と今は思っているのだが、大雑把にまとめてしまうと「アート」と言えるのではないか。

一方で、テクノロジーは人間社会をより良くするためのツールであって、現代の人間に受け入れられているのは、人類の根底にある「進化」という琴線に触れているということと、自らの進化によって逆に自分達を追い詰めている状況の解決・共存(例:自然/環境破壊による異常気象など)のために必要だからだと思う。

よって、テクノロジーは必要だし、これからも必要だし、同時に人類を進化させていくのだろう。

そして、その人類の真理を明らかにしようとしているのがアートであって、テクノロジーと主に変化・深海している人類の真理は変化し続けているわけだから、アートも同時に、人類を進化させるだろうし、人類になくてはならない存在だと思う。

アート×テクノロジーは、人の人たる所以を多角的に捉えつつも、現実社会に実装していくプロセスなのではないか。

脚下照顧

相手に喜んでもらえるような良い仕事をした時は、たびたび頭に浮かんでくる言葉。

亡くなった祖父母の家の、玄関のポスト下に、この言葉の貼り紙がしてあった。意味が知りたくて幼いながらに辞書を繰ってみたら、以下の意味だと分かった。

自分の足元をよくよく見よという意。もと禅家の語で、他に向かって悟りを追求せず、まず自分の本性をよく見つめよという戒めの語。転じて、他に向かって理屈を言う前に、まず自分の足元を見て自分のことをよく反省すべきこと。また、足元に気をつけよの意で、身近なことに気をつけるべきことをいう。

おそらくだが、家の玄関のタイルがなめらかな石づくりで、特に雨の日は滑るから、足元に気をつけてください、という意味でも貼っていたのだろう。

だがしかし同時に、上記の意味でも使っていて、自分の戒めとしていたのではないだろうか、と思う。

祖父は昔気質の厳しい面がある人で、なるほど、今考えてもあの祖父なら書くだろう、と妙に納得しつつ、笑ってしまう。

そしてその言葉を気に入って、たびたび思い浮かべている自分は、やはり祖父の孫なんだ、という気持ちになって、どことなく嬉しい。

水たまりに触れる花びら

梅雨が明けたばかりの沖縄の一昨日は、まだ道が濡れていたり、水たまりがあったりした。ふと足元に目をやると、小さい穴の水たまりに、花びらが少しだけ触れていて、どことなく趣があって心に染みた。気がついたら写真を撮っていた。

脚下照顧の意味とは異なるかもしれないが、小さな世界に気づくことができたことと、この言葉を思い出した自分を、どことなく褒めてあげられる気がした。

齋 悠記さん との出会い

沖縄のアーティスト:齋 悠記さんがRENEMIAという場所で個展を開かているということを、運良く知ることができた。DISCOVERY というサイトに、たまたまたどり着いたのがきっかけ。

■DISCOVERY
https://www.moiaussibe.jp/1733/

とても良いご縁をいただいた。齋さんの作品はどれも暖かく、ふわっとした気持ちになりつつ自分を振り返ることができる極上の空間をもらうことができる。

制作中は「何も考えない」

齋さんの作品を拝見して思ったのが、その色の奥深さと透明感。その世界観が作り出す雰囲気は、齋さんの内面を見せてもらっているような気がしたが、気づいたら自分の内面と向き合っているという、いつの間にか「自分の対話」をしている不思議な感じ。

言語化できない感覚だが、包まれているような、けれどつきっきりではなくタイミング見て解き放ってくれるような、そんな感じ。

swim & dive2

アートは、その作品を人が見て会話をしたときが完成だと思っている。そして、アートというのは、アーティストの訴えであって、訴えも多種多様存在する。社会に対する憤り、実現したい世の中、環境問題についての発信…。

齋さんの作品は掴みどころがなくて、彼女自身が何を思っているのか知りたくなって、制作中に何を考えているのかと伺ったところ、帰ってきた答えは「何も考えていない」というものだった。

基本的に何も考えず、その時その時のインスピレーションで制作するそうだ。

絵を描くことで、自分の内面を模索した時期

元来、絵を描くことが好きで、高校生の自分は自画像を描いていたこともあるそうだ。それも「自分の内面を探る」とか「自分がどういう存在なのかを探る」という意図があったのだろう、と教えてくれた。

その後、美術の学校に入ってデッサンを学び、デッサンの奥深さを感じつつ、色に着目していった。最初はキャンバスも四角なものだったが、違和感を感じつつ試行錯誤して、現在の「正方形で、角を取っている」キャンバスにたどり着いた、とのこと。

自分との対話ができた、上質な時間を過ごす

アートは、やっぱり素敵だ。なぜなら、作品をとおして自分と対話することができるからだ。対話を通じて、自分が感じていること、なぜそう感じるのかなど気づくことができて、大きな糧となる。

齋さんに、自分が作品を見て感じたことを話すと、とても興味を持って聞いだくださるのも嬉しかった。おそらく、単純に興味があるのだろうと思う。自分が無心で作った作品を見て、人がどう思ったのか。僕なら気になる、そう思う。

作品を通して自分と対話できること、そのアーティストと会話すること。それができるアート、個展は、やはり素晴らしい。

なかなか達成できていない「個展をひらく」という自分の目標。ここ沖縄で必ず達成しようと改めて誓った。

境界線とバランス。

「自分勝手」と言われる人は沢山いると思うけど、よくよく考えてみると人間は誰しも自分勝手であって、そんな中で自分勝手と他人から言われる人は結構興味深いと思う。

とどのつまり、バランスの問題なのだろう。

なにかの基準があって、相対的に自分勝手の度合いが高い人が、自分勝手と言われているのだろう。

明確な基準=境界線って、きっとない。千差万別。自分の置かれている環境によってもその境界線は(微妙に)異なるはずだ。なぜなら、自分の属する母集団においての相対評価だからだ。生まれ育った環境とか置かれている環境によって、母集団における相対評価は変動する。

結局、なんでもバランスなんだ。

自分勝手も自分勝手じゃないも、バランスなんだ。

人生において、このバランス感覚はとても大事な気がしてきた。

片方によると自分勝手(=自分を守れる)、もう片方によると相手に合わせる(=自分が守れない)となるケースもあると思う。アサーティブにコミュニケーション取るためにも、バランスを意識した、ニュートラルな視点を保ちたいものだ。

ところで、先日、バスの所在地を示す電光掲示板の真下を観察してみた。路面に反射する光が妖艶な感じで電光掲示板の真下を飾っていた。よく見ていると境界線が分からなくなるような、そういうエッジの聞いた雰囲気がステキだと思った。

これもある種のバランスだと思う。明確でもあり、曖昧でもある境界線を持つこの景観は、色々と思考を巡らすことができる、僕にとって、良い出会いだったと心底思っている。

A boarder.

ゴミから見えてくる人間についての観察と洞察。

The human.

ゴミを見てしまう一種の癖のような習性が、僕にはある。

ゴミはおもしろい。人間性が分かる。例えるならば、駆け出しのラーメン店のオーナーが、人気店のゴミ箱からヒントを得るような感じ。

要するに、ゴミには捨てた人の人間性が出ると思っている。地域によって、傾向が出てくる気もしている。

ゴミは、人間が最も気を遣わないモノの一つのはずだ。即ち、気を抜いている状態。だから、ゴミには人間性が出ると思っている。観察しない手はないし、洞察もする。

ゴミでビジネスがやりたいと思っている。その理由は、「なぜ捨てるのか?」「捨てたくならないような仕掛けはないか?」という問いから導き出される「人間とは何か?」を掴んだビジネスを展開できれば、ストレスなく、むしろみんながこぞってゴミをなくす社会を実現できると考えているからだ。

ゴミ(と捨てる人間)の観察と洞察は、これからも続く。

新緑と気付きとバランスと。

Seeing.

コロナもだいぶと収束モードか。第二波が心配ではあるけれど、今のところだいぶと日常生活を取り戻しているような気がする。

今日は、新入社員候補の面談。ストレス耐性もありそうだし、ストレートに物を言う姿勢が、つっけんどんだと表面的に思う一方で、根はマジメなんだろうという気にさせて、50−50という感じの人材だった。気軽に雇用して気軽に解雇する、ということはしたくないので慎重になる。考えた結果、まずは試用期間ということを了解して来てもらうことに。

面接では、表情や仕草だけでなくて、細かな所作も見る。見るというか、自然と見てしまう自分の性格。面接には向いていると言えるのかもしれない。

細かな所作とは、モノを手に取る指の先、部屋を出る時の背中の雰囲気、ものを話す時の唇や目の動きなどを含めている。その最後の一瞬、文字通り「刹那」に、その人の真実が出ると思う。

なぜなら、日常的に気をつけておかないと身につかない部分だからだ。

話変わって写真について考えてみると、この細かな部分に気がつくという性格は、これまた向いている気がする。

季節ごとに変化する景色や、植物、自然などに目が行く。何度見ても飽きないし、何度見ても新しい発見があるから、自分の観察力に磨きがかかるし、また反省や振り返りもできるから楽しい。

目の前のことに集中する、ということも意識的にできるだろうし、そうすることで今を生きることができる、ということも分かる。

局所が分かれば、対局も分かる気がする。人は無意識=宇宙でつながっているのだろうな、と思える時もある。陰と陽、静と動、明と暗。

時と場合によって、どちらの意識に厚みをもたせるかは自分の中で調整する必要がある。冒頭に書いているとおり、こと面談では局所的な目線に厚みを持たせたほうが役に立つだろう。

最近、特に局所・大局を意識することが多くなった。写真は自分の心を表現できるツールだから、自然と写真に反映される。ピントを合わせない写真が多いのは、そういう心境の変化(成長)があるからだろう。

局所を知り、大局を知る。そして、そのことをアート的思考を持って写真で表現する。どうやら、これが(今の)自分のやり方のようだ。突き進む。

A Life. – ブロック塀から生きる植物。

歩いていたら、ブロック塀から生えている植物を発見。良く見ると塀に穴が空いていて、そこを根城に、草が力強く生えていた。したたか。うらやましいくらい、したたか。

A Life.

生命とは強いものだ。生きようとする。

生きようとすること・種を残すことにどこまで意味があるのかは、時々考えてしまうテーマだが、時々考えてしまうだけに、したたかに生きているモノを見ると触発される。

翻って、自分の人生や自分の日頃の行いを考える。まだまだ意識を高める必要があることに気づく。良いきっかけをいただいた。感謝。

Unconsciously.

朝から熊本県は阿蘇にある「萌の里」というところに写真撮影へ。ポピー(花)が咲いている季節ということもあり、友人と一緒に。友人が一念発起してカメラを購入したという連絡をくれたので、だったらということで急遽2人で行くことにした。

新しいカメラを買った友人の顔はほころんでいて、見てみて幸せになれるほどだった。その気持ち、大いに分かる。自分もカメラを購入した時は、顔のニヤつきを抑えることができなかった。

ちなみに、機種は Sony のα7 初代。レンズはF1.8 85mm。αは3代が最新のようだが、全く問題ない。というか、初代は初代の味がある。古いから撮れないとか、新しいから撮れる、というものではない。もちろん、目的・用途によっては最新機種でなければならい場合もあるだろうが、アート作品を作るとか、メッセージを発する写真を撮ろうとするなら、全く問題ない話だ。

かくいう僕は、FujifilmのX-T1を愛用している。これでしか出せない色や雰囲気がある。気にっている機種だ。

お目当てのポピーは満開のようで、なかなか良いタイミングで撮影に来れたと満足できた。友人も黙々と撮影。

一緒に撮影するって、とても独特な雰囲気だけど、気持ちが良い。べらべら話すわけでもなく、かと言って全く話さないわけでもない。仲良く話したかと思ったら、全く別のルートで黙々と写真を撮っている。その距離感というか雰囲気が心地よい。

フォトウォークのイベントやると、とても良いと感じた。

写真は良い。細やかな部分まで観察する目が養われるから、日常のちょっとした幸せを発見・再認識できるし、場合によってはそこから、物事の本質を見極める、即ち洞察する目や、創造する力を養うことができるからだ。

フォトウォークで、地元の人と海外インバウンドを結ぶのも楽しそうだ。

国内でも、海外インバウンドでも、どちらもやってみよう。

This unmatch is already usual in recent days?

写真を撮っていて良いと思うことの一つに、日常のつぶさなことに目が留まるという点がある。

所要のため外出した際、道端の植え込みに目が行った。

なんてことない風景だが、植物と人工物のアンマッチが、最近ではマッチしているのだろうと思ったし、花の終わりということと、まだ食べられそうなお菓子がゴミとして終焉を迎えているという「異なる形の終わり」が、なんとなくマッチしているし、現在社会を風刺できている縮図とも感じられた。

自分的に、何か心にくるものがあったので、ここに記してみる。

ところで、「終わり」と書くとマイナスが感情が芽生えることがあるが、「終わりは始まりの始まり」とも思えるので、深淵なプラス感情を覚えるので、好きだ。