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Whiplash and J.K.simmons,

原題は「Whiplash」、邦題は「セッション」という2015年の映画。前々から見たいと思っていているが、チャンスがなくてまだ観ることができていない。

最近、特に気になってきたので、Youtubeなどで予告を観て楽しんでいたところ、J.Kシモンズにインタビューした以下の動画を発見した。

[Whiplash / セッション] J.Kシモンズへのインタビュー

シモンズ氏のコメントで、彼の映画作品への深い理解と、高い教養を感じることができ、とても感銘を受けた。自分は、自分が取り組んでいることに対して、ここまで理解できているのかとか、教養を磨けているのか、と省みることもできて、とても勉強になったインタビューだった。

本当の意味で「格好いい」とは、シモンズ氏のような人を言うのだろう。

とてもお手本になったし、これからもお手本にし続けたいと思ったので、今の気持ちとともに、投稿として保存しておく。l

脱スマホで読書タイムを確保する。

読書はストレス解消になるらしい。その理由は、読書をすることで、登場人物に共感したり、本の内容に没頭することで、日常的に考えている事項から自分を開放することができるから、とのことだ。

これは一種の瞑想・マインドフルネスと言っても過言ではないと思う。

さて、その良さそうな時間を確保するためにも、無駄な時間を削ぎ落とす必要がある。思えば、スマホは本当に時間を盗んでいくツールだと思うので、脱スマホすることが一番の捻出方法だと思っている。

とは言うものの、スマホは悪ではなくて確実に僕にとっては善であって、自律できない自分が未熟なだけ、ということも良くわかっているのだが。

どちらにせよ、脱スマホすることは時間捻出の大きな要素だし、デジタルデトックスの効果は実体験しているし、そして確保した時間を読書に充てると、より一層自分にとって良さそうだ。

昔から、共感力は強い質。読書も好きだから、もっともっと読書しようと思う。活字のご飯をたらふく食べることにする。

欲してしまうと得られない?

求めてしまうと得られない。

期待してしまうと言うことは、自分勝手に期待してしまうことにつながりかねなくて、結局(勝手に)失望や落胆することになるかもしれない。

欲さずに、かつ、自分の内面から湧き上がる感情のままに行動するって、かなり挑戦的。

Coolをデザインする。

海外のCivit TechはCoolらしい。とても素晴らしいと思う。

日本と文化背景が違うのは当然要因としてあるだろうが、Coolと思われる取り組みにしたいと、自分の内側からフツフツと思いが湧き上がってきた。

考えると、これってCoolをデザインするってことだとも思える。プライドを持って、自信を持て、物事に取り組むために必要な考えだ。

人生をかけてチャレンジして良い。

ネガティブな感情に支配されるのではなく、逆に利用して成長するコツ。

きっかけは老害との遭遇。

かなり久しぶりに老害っぽい人と仕事している。

同じゴールに一緒に取り組む施策なのに、こちらから声をかけたことを「お願いしてきた」と捉えて、上から目線で、マウント取ってくるんだけど、やることやらない人。

施策を進めようとしても何かと文句や茶々入れしてきて、けれど、前に進むための議論はしない。基本的にネガティブ。

そのくせ、自分のペースで物事を進めたがるようで、打ち合わせの日程を決めるにも、自分が空いている日時に合わせるのが基本だろう?という姿勢。なのに、メールや業務チャットのレスポンスは遅い。

僕の進め方が強引だったと反省したこともあって謝罪もした。けれど、態度が変化しなかったので、効果は薄かったと思われる。

正直、面倒くさい。メンバーから外せるなら外したい。

ネガティブに考えてる自分に気づいて、ポジティブに考えようと努めた。けれど結局、こういう負の感情に収束してしまう…。

自分を顧みて、自分を理解する良いチャンスと捉える。

一方で、そもそもなぜ自分がこういう考えにいたるのだろうか?という目線でも思考を巡らせてみた。

きっと、僕自身も承認欲求が強いんだろう。多分、執着しているんだ。つまり、自己肯定感が低いということなのかもしれない。

人間の精神成熟度や精神状態、思考の癖などの人格に近い部分は、生まれ育った環境に大きな影響を受けるはず。僕の育った環境はどうだったのかを顧みた。

父親の躾は厳しい方だった。しかも短気。躾が厳しくてもフォローがあれば(僕にとっては)良かったのだろうが、フォローもなかった気がする。小さい頃は良く怒られていて、一緒にいると常に緊張して萎縮していた。顔色も伺っていた。もしかしたら、そういうことが原因の一つなのかもしれない。

小学、中学、高校、大学、それぞれの記憶を引っ張り出してみる。失敗と思っていたことや成功したことも思い出す。社会人になって、特に最近は仕事が楽しいし仕事に没頭していて、目の前のことだけを常に考えているだけに、過去の記憶を思い出す作業は久しぶりで新鮮だ。

なるほど。これは、おもしろいし、興味深い。

結局、人間は自分本な生き物だから、短絡的には相手の非を一方的に避難しがちだけど、じっくり思考できることも人間の良い部分で、だからこそ、今回のように自分を顧みることができた気がする。

自分の内面を顧みるきっかけになったと考えると、老害に遭ったとそこまで悲観することもなくなってきた。というか、逆にありがたいくらいだ。

(ちなみに、ブログに記載することで、より一層思考の整理ができて良い。スッキリする)

「自分の時間を過ごす」という意識。

同時に、時間をもっと有効活用すべきだとも考えた。

自分で嫌っておきながら、嫌いな相手のことを考えるって、とても「もったいない時間の使い方」をしていると思う。

全く考えないということではないし、(少なくとも今の僕は)どうしても考えてしまうから仕方ない。ただ、延々と考えるのは時間がとてももったいない。

僕にはやりたいことがたくさんあるし、心から尊敬・慕っている人もたくさんいる。応援してくれる人や、慕ってくれる人もいる。こういう人たちや、自分自身のために時間をつかうべきだ、と。そう考えた。

相手のことを思っているということは、「相手のために時間を使っている」ということ。どうせ時間を使うなら、自分のために時間を使った方が良いに決まってる。

ふと、スヌーピーの名言が頭をよぎった。

I don’t have time to worry about who doesn’t like me.

I’m too busy loving the people who love me.

スヌーピーの名言

感情を長文でアウトプットすることは効果がある。

負の感情に陥った時も、自分を否定するのではなく、自分を顧みるチャンスと考える。自分の感情を因数分解してみる。こういうプロレスを経るだけでも、自分のプラスになることが分かった。

そして、このプロセスを効率よくこなすためにも、上手にアウトプットすることが大事だということも経験できた。

ノートに記載するのもOKだし、ブログに投稿するのもOKだ。個人的には、長文が書けるから、ノート・日記やブログ投稿が良いと思う。

TwitterなどのSNSだと長文に向いていないから、深く思考できない気がする。なので、長文のアウトプットができるツールである、ノート・日記かブログがおすすめだ。

何事も、結局はプラスになる。だから、常に成長できる。

今回の経験でも、やはり「どんな経験でも学びはあるし、学ぶことができる・成長できる」ということを痛感した。自分の血肉となる良い経験となった。

ツールを最大限活用して、自分を顧みる。そして、相手の時間ではなくて「自分の時間」を過ごす。

このように、これからも成長し続けていこうと思う。

やること。

「やりたい」と思うと、「やりたいを実現しようとする」から結局実現しない、と買いてある本があった。

なるほど。

その時から、「やりたい」ではなくて「やる」と言うように心がけている。

僕は「真面目に頑張る人が得をする社会をつくる」。

これが目標だし人生のゴールなのかもしれないと思っている。

理不尽なことを知ると、解決したいと思ってしまう性格。例えば、生まれ育った環境で人生の選択肢が狭まる現実があるとしたら、看過できない。

そのための方法として、アート×テクノロジーが、いや、もっと正確に書くと『アートとテクノロジーの調和』が必要だと考えている。

けれど、アート×テクノロジーが、もっと正確に書くと『アートとテクノロジーの調和』が根幹にある。

自分を顧みて自分の哲学を見出し行動するためにアートを、距離や時間を含めて環境の格差をなくしたり効率化するためにテクノロジーをそれぞれ使うことで、一人ひとりの行動が変わっていくだろうし、そうなる世界を僕は創る。

アート×テクノロジーを考える。〜オランダの試みから〜

人はそれぞれライフサイクルがあって、強引だけど、ある程度のカテゴリ分けができるのかもしれないし、それぞれのライフサイクルに合わせたテクノロジーの活かし方がある、ということを学んだ。

以下の参考サイトに記載の施設は、認知症患者だけが住める施設。一般的な医療施設を営んでいたが、利用者から「生活していない感じがする」という声が挙がったので、改革に乗り出したようだ。

デザインの観点が強いかもしれないが、そこに住む人たちが、自分なりのライフスタイルを確立して、仕事や創造的な行動などまで展開できているとしたら、ある意味アートと言っても良いのではないか。

以下の文章が印象的だった。

「私たちのやり方をそのまま真似るのではなく、自国の文化に合う形に置き換えていってほしいと思います。経済レベルや家族構成、仕事の内容、学歴などによってライフスタイルはさまざまです。その違いはとても大きく、『すべての人たちを一つのグループに押し込めても大丈夫』という単一社会は存在しません。多様性に焦点をあて、おのおのの生活パターンに近い形で過ごせる環境をつくる。認知症の人にとって、とくに重要なことだと思います」

参考サイトから引用

Web3やDAOが主流になる世の中では、今よりも個々人の考えやライフスタイルが尊重されるし、遠慮なく発信した方がより強いつながりを構築できるはずだから、もはやカテゴリというものは存在しなくなるとも思う。

この施設は、その先駆的な取り組みをしている気がする。勉強になった。

参考サイト

【Yahoo! Japan SDGs】スーパーも映画館もある、認知症患者だけが暮らす「街」―「普通に暮らしている感覚」を提供するオランダの試み

好奇心と自己資金の間から。

お金に対する考えというか、メンタルバリアを溶かさないといけないな、と思う。

今までもトライしていて、以前よりだいぶと改善していると思う。要するに、考えもせずに貯蓄だけするのではなくて、時には経験のために大金を払うということだ。

先日も mems 東京 オートグラフコレクションに宿泊した。今の自分にとっては思い切ってお金を使った部類になるわけだが、結果、とても良かった。自分の価値観や考えを成長させた、投資となった良い経験だった。

人生いつ終わるか分からないし、自分をレベルアップ・グレードアップさせた方が、残りの人生をより充実できるのは確実だから、投資と思ったら思い切ってお金を使う方が良い。

メンタルバリアを溶かすための、誓いの投稿として。

アート×テクノロジー|「野生の思考」の解説を読んで。

レヴィ=ストロース「野生の思考」を中沢新一氏が解説している100分de名著を読んだ。

正直、難解すぎて理解できなかったが、レヴィ氏の言う「構造」というものがどういう概念・考えなのか、ということは、人間の顔と魚を方眼・バランスで表現した図を見てからほんの少しだけ理解できた気がする。

理解できないままでも思ったことは、未開人や先住民たちが自然界をよく観察して、そこから真理を追求してきたということが、現代社会に当てはめるならアート×テクノロジーなのだな、という事だ。

全ての学問が「真理を追求するためのカテゴリ・プロセス・アプローチ・観点の違いなだけ」と今は思っているのだが、大雑把にまとめてしまうと「アート」と言えるのではないか。

一方で、テクノロジーは人間社会をより良くするためのツールであって、現代の人間に受け入れられているのは、人類の根底にある「進化」という琴線に触れているということと、自らの進化によって逆に自分達を追い詰めている状況の解決・共存(例:自然/環境破壊による異常気象など)のために必要だからだと思う。

よって、テクノロジーは必要だし、これからも必要だし、同時に人類を進化させていくのだろう。

そして、その人類の真理を明らかにしようとしているのがアートであって、テクノロジーと主に変化・深海している人類の真理は変化し続けているわけだから、アートも同時に、人類を進化させるだろうし、人類になくてはならない存在だと思う。

アート×テクノロジーは、人の人たる所以を多角的に捉えつつも、現実社会に実装していくプロセスなのではないか。

起業した友人。

友人が起業した。

前々から個人事業主としてがんばっていたところ、今回、株式会社として新たにスタートすることになったらしい。

お祝いも兼ねて、久しぶりに夕食を一緒にとった。

話を聞くに、なかなかの見切り発車をしているが、それは機会損失というリスク回避と、伸び伸びになりそうな自分へのプレッシャーということだ。

なるほど、納得がいく。そういう動きをしないと、確かに、起業は一生できない気がする。

この友人は、人格者でありつつも情熱を持って仕事をしている、稀有な存在で、僕にとってとてもありがたい存在だ。お互いの将来やビジネスについても語り合うことができる。

大変なことも多いだろうが、こうやって定期的に連絡取り合って語り合うことができて、きっとビジネスでも連携できると思うから、心強い。ご縁に感謝、だ。