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マルタに行ってみたい。

ひょんな事から、マルタに行ったことがある方の話を伺うことができた。

中学生の時に、「猫の国」と紹介していたNHKの番組をたまたま見たことがきっかけで、行きたいと渇望していたようで、行けたことにとても満足されていた。

聞いたことがない国だったのでググってみたら、地中海に浮かぶ人工55万人くらいの小さな国で、The 地中海という感じの街並みで、とても魅力を感じた。

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マルタの写真

街の茶系と、地中海の青、そして空の青が、なんとも言えない絶妙なバランスで、うっとりリラックスしてしまう。

これは行ってみたい。「行きたいところリスト」に追加した。

ところで、最近、イタリアに興味が湧いている。料理も、文化も、地中海も。そんな中、マルタの話をたまたま聞けたのは、どことなく縁というか運命的なものを感じてしまった。

こういう人生の流れのようなものは、大事にする性格だ。きっと実現する。

英語で人助け。

電車に乗ろうとしたら、駅員さんに色々と聞いている外国人の男性がいた。

たまたま同じ車両で隣になった。乗るまでも、キョロキョロしたり、手持ちの印刷物をしきりにチェックしていた。

「きっと、観光客で初めてだから迷っているんだろう。声かけてみようかな」と思いつつ、「けど、英語自信にないし」と躊躇してしまった…。

が、よくよく考えたら失うものは何もないし、ここで声かけしなかった方が後味悪いだろうし、英語の良いトレーニングと思えばプラスしかないな、と気づいたので、話しかけてみた。

もちろん、相手は英語ペラペラ。対して僕は、言いたいことの2割くらいしか言えない状態。少し話をして、うまく会話できなくて、けど最後には「声かけてくれたありがとう」と言われた。

で、そのままで終わりたくないので、結局、自分が降りる予定の駅じゃなくて、その方が降りる予定の駅で一緒に降りて、バス停まで案内して、バスに乗るまで見守った。

振り返ってみても、やっぱり失うものは全くなくて、得るものばかりだった。2割しか言いたいことが言えなくて忸怩たる思いをしたけれど、逆に英語勉強のモチベーションが高まったし、思い切って行動した自分を褒めてあげたい。よくやった、自分。清々しい気分。

ちなみにその方、バレー日本代表のコーチだった。これも何かのご縁なのかもしれない。

https://ragincajuns.com/sports/womens-volleyball/roster/coaches/bruno-chateau/1246

次からは、躊躇せずに声をかけよう。だって、楽しいことしかないもの。

あと、英語のスピーキングも練習あるのみ、と実感。一人二役で「妄想会話」をしてみようと思う。次は、もっと楽しい英会話ができるはず。楽しみだ。

優先度。

自分にとって大事なことだけに集中したい。

会社に属していると、そうも行かない。雇用関係を結んでいる以上、会社の指示に従うことが基本。労働と時間の対価として、お給料をいただく。

とはいえ、バランスが大事だ。言われるがままというのは、違うと思う。

自分がやりたいこと、かつ、自分にしかやれないことを整理して厳選して、その他は周囲に依頼するのが理想。

周囲のWinにも、自分のWinにもなるように、仕事を依頼することが、これまた難題。けれど、Win-Winになるように常に考えることは必要だと思うし、おもしろそうだし、自分の時間確保にもつながるといういい事づくしなので、トライしている。

trauma.

無意識に人に合わせようとしていたり、答え合わせをしようと不安がっている自分がいる気がする。

自分自身の生まれ育った環境を振り返ってみて、影響を受けている事は多数あると思う。

ふと、これも一種のトラウマだと思った。

そして、トラウマと思うことができたのだから、克服することもできる、とも思った。

随筆、散文。

エッセイって何だっけ?と思って調べてみる。

随筆、と出てくる。さらに調べてみる。

散文、と出てくる。さらに調べてみる。

情趣がない文章、と出てくる。要するにおもしろみがない文章、ということらしい。

何を持っておもしろみがある・ないと言うかは気になるが、もうこの辺で調べるのを辞めた。

思ったことは「やはり言葉は気持ちを伝える道具としては完全じゃないし、むしろ不器用なんだろう」ということ。

しかし一方で『だからこそ先人がこれまで気づきあげてきた叡智があるもの』とも思えた。

「気持ちを完全に伝えることはできないかもしれない」が、『言葉だから伝えることができる気持ち』もあるのではないか。

エッセイは、そのための一つの手段だと思っているし、だからこそ「おもしろみがない」とは言わせたくない。

時代は移り変わっている。現代での「おもしろみがない」は、昔とは異なるはず。

こう考えると、程よいガッツが湧き上がってきた。エッセイという文化をさらに押し上げるとかだいそれたことは考えていないが、それでもそういう類の一部になる気持ちで書いていこうと思う。

文章を書くこと。

小さい頃から、文章を書くことは苦手ではないし、理系の道に進んだものの、元来「文系人間」だと自分でも思っている。

好きな教科は国語。苦手な教科は算数と数学。

国語が苦手な人の言い分は「はっきりと答えがでないこと」だ。テストでも「筆者の気持ちを考えよ」みたいな問題は、みんなは嫌がりがちだが、僕は好きだった。

確かに、「他者の気持ちは分からないから、書いた内容に点数を○☓をつけられるのは納得いかない」という意見には賛成だし、そもそも僕が好きなのは、テストの構成的に、問題となる文章の近くに答えがある、というシンプルなものだったからなのかもしれない。

とは思いつつも、やはり国語は好きだし、作文も苦手じゃない。正直に言うと、周りのみんなが毛嫌いしていることに共感できなかった。

さらに、今の会社に入ってから、幸いにも素晴らしい先輩と出会うことができ、論理的な思考やら文章の書き方やらを叩き込んでいただいたので、ことさら苦ではなくなった。


さて話は変わるが、僕は10年以上前からブログを書いている。

ブログ自体は、構築しては閉鎖しを繰り返しているので、個々では短期的かもしれないが、トータルではやはり10年以上前から何かしら書いているのだ。

ブログが「ウェブログ」と言われていた時代から書いている。「ウェブ+ログ(記録)」の造語として出てきたウェブログは、一般に普及するに従って、その名を「ブログ」に変えてきている、と記憶している。

僕がブログに取り組む目的も移り変わってきた。最初は「単なる興味」。次はアフィリエイト、Google Adsense、といった具合に、今で言う「副業」的な目的へと変わっていった。そして、一時期は全く更新しなくなる。他の事柄の優先度が上がったためだ。

ブログ運営の王道は「テーマを絞る」だけれど、どうしても絞りきれなくて、絞ることが苦になるとういか本末転倒になってきたので筆が止まった。けれど、ブログ自体はどことなく残していたし、気にもなっていた。

そしてある日思ったことは「ある程度絞っておけば良いし、自分のための自分ログ(記録)として続けたら良いのではないか。”自分が学んだこと”というテーマであれば絞ったことになるかもしれないし、世界のどこかの・だれかのためになるかもしれない」と思いついて、今に至っている。

自分のためにやることであれば、戦略とか戦術とか考えなくて良い、すなわち読み手に媚びなくて良いから気楽だ。そもそも、興味本意で始めたことで、いつの間にか自分で自分を縛って圧迫させているなんて変だ。

こういう風に考えを転換させたら、途端に文章を書くことが楽しくなった。そして、もっと「良い文章」を書きたくなった。


さて、良い文章とはなんだろう。マスターべションでも良い、自分が「読みやすい、おもしろい」と思えるような文章が良い。まずはそこからにしよう。

作文は嫌いじゃないし、会社でも文章について学んだ気になっている。だから、最初は誰にも学ばずに文章を書き始めた。そして、自分の文章を読み返してみる。なるほど、足りない。

大きく足りないのは間違いないが、そうではなくて、その前に小さく何かが足りない。きっかけというか、そういう「感覚」に似た何かをつかめば、もっと良い文章がかける気がする。

お手本が必要だと、いくつかの本や文章をことさら意識して読んでみて、辿り着いたのが「さくらももこ」だった。

さくらももこさんの『ひとりずもう』は、最初に読んだ時から僕の「人生の一冊」となっていて、何度も再読していた。お手本を探していく中で、当然のごとく自然と手が伸びて再読した。

やはり良い。内容ももちろんだが、文章の一文字一文字が素晴らしい。「自分の理想の文章」が何なのかまだ分かっていないけれども、それに限りなく近い気がする。

残念ながら、氏はすでに他界されているので新作は望めないけれど、残された文章を読ませていただいて、自分の文章の糧とさせていただこうと思う。いつの日か、「自分のため」という枠を自然と超えて、読み手にとって良い文章を書けるようになることを目指す。

The Struts – Could Have Been Me

見た目は尖って弾けている感じ。歌詞も若気が至っている感じだけど、どことなく優しく丸いので好感が持てる。

人生やりたいことをやり遂げたい、後悔はしない、という強い思いを感じる曲。

「Never look back and say Could have been me.(振り返って言いたくない「自分だったのかもしれない」なんて)」という部分が、やっぱり良い。やり尽くしたいという感情が伝わる。

青臭いと言われるかもしれないが、青臭いことこそ大事だと思っているので、自分を励ますためにも、この手の曲は定期的に聴いている。この曲も、その仲間入りとなった。

Don’t wanna live as an untold story
Rather go out in a blaze of glory
I can’t hear you, I don’t fear you
I’ll live now cause the bad die last
Dodging bullets with your broken past
I can’t hear you, I don’t fear you now
Wrapped in your regret
What a waste of blood and sweat
Oh oh oh

I wanna taste love and pain
Wanna feel pride and shame
I don’t wanna take my time
Don’t wanna waste one line
I wanna live better days
Never look back and say
Could have been me
It could have been me
Yeah

Don’t wanna live as an unsung melody
I’d rather listen to the silence telling me
I can’t hear you, I won’t fear you
Don’t wanna wake up on monday morning
The thought of work’s getting my skin crawling
I can’t fear you, I don’t hear you now
Wrapped in your regret
What a waste of blood and sweat
Oh oh oh

I wanna taste love and pain
Wanna feel pride and shame
I don’t wanna take my time
Don’t wanna waste one line
I wanna live better days
Never look back and say
Could have been me
It could have been me
Yeah

Hey

I wanna taste love and pain
Wanna feel pride and shame
Don’t wanna take my time
No
Don’t wanna waste one line
Hey Hey

Wanna live better days
Just better
Never look back and say
Could have been me

It could have been me
It could have been me
It could have been me

I wanna taste love and pain
Wanna feel pride and shame
I don’t wanna take my time
Don’t wanna waste one line
I wanna live better days
Never look back and say
Could have been me
It could have been me
It could have been me
It could have been me
Yeah

Hey

I wanna taste love and pain
Wanna feel pride and shame
Don’t wanna take my time
No
Don’t wanna waste one line
Hey Hey

Wanna live better days
Just better
Never look back and say
Could have been me

スノーボールエフェクト。自戒を込めて。

「スノーボールエフェクト」という言葉を聞いたことがある。

雪だるまを作る時は、まず小さなスノーボール=雪玉を作って、その雪玉を転がして段々と大きくしていく。

そして、大きな雪の玉を作って重ねて、雪だるまにするわけだが、その様子を指しつつ、「まずは小さなことをやる。そしてコツコツ積み重ねることで大成をなす」ということを意味している言葉だ。

お金の話で言う「複利の効果」みたいなイメージも覚える。

何を言いたいかと言うと「コツコツ毎日、小さな一歩・進歩で良いから継続して行動すると、成功に近づいていく」ということだ。

1.01の365乗=37.8だから、要するに、日々1%でも行動して進歩したら、365日=1年で37.8倍になる、という話も有名だ。

表現を変えたり、数字を活用してイメージしやすくしているが、色んな人が色んな所で言っている本質は、「行動すること」そして「継続すること」だ。

至ってシンプルだけど、真理であって、そしてほとんどの人が実行しない。というか、実行できない。

成功するかしないかは、たったこれだけ、とてもシンプルな差なんだな、と改めて思う。

自戒を込めて。

ローカルビジネスは、その土地に住まないと成功しないのか?

いつも思うことだが、その地域をビジネスで盛り上げる、即ちローカルビジネスを継続して成功させるためには、その土地に住む必要があるのだろうか?

僕がその地域の人であれば、やっぱり同じ地域に住んでいる方が、安心だし話も伝わりやすいし、すぐに相談できるから良い、と思ってしまう気がする。

ただ、そうすると他の地域に行けない。

やはり両立が難しい話だと思うので、まずは自分がどうしたいかを解像度高く認識する必要があるな。

僕の場合は、一つの場所にとどまるのではなくて、より多くの地域に貢献したい。だから、その地域に住まずに取り組めるスタイルを確立しよう。

ゆでたまご、を作りました。

今更ながら、人生で初めてゆでたまごを作った。

どうでもないことと思っていたら、意外と学ぶことがあったので、あえて細かく書いてみる。

無知の知 ~たまごと僕と茹でること~

ゆでたまご。作るのは簡単だと思うし、何気なく食べる機会は日常にあったので、意識していなかった。かつ、盲目に「作れるだろう」と思っていた(なめていた)。

本日は夕食を摂ったにもかかわらず、どことなく小腹が空いて、その隙間が埋まらない。こういう状態は、誰しもあるのではないだろうか。

お腹は満たされているはずなのに、なぜか小腹が空いていて、何を食べても満足できない。食べ続けて太るパターンだ。

渇きが癒されないので、結構ストレスも受けてしまう。乾きを癒したい。満足!と言いたい。けれど、何を食べたらよいか分からない…。

なにかないだろうか…と冷蔵庫を開けてみると、たまごを発見。よし、これだ。

卵焼きを作ろうかと思ったが、どことなく面倒くさい。わがままな自分だ。

よし、ゆでたまごにしよう。

ゆでたまごは、卵焼きよりも食べたい気がするぞ。久しぶりに食べるときっとおいしいはず。いや、絶対おいしい。

こう考えると、頭ではたまごやきをロックオンしてしまっているから、食べなければ収まらない状態となっていた。

作り方の手順をシミュレーション

さて、早速作ろうか、と。決めたからには即行動。早く食べたい。

鍋にお水を入れて、ガスコンロにセットして火をかけて、煮て、できあがり。調理手順はこうだ。これしかないはずだ。

…ん?けど、何分茹でたらいいんだっけ?

実際に調理、そして振り返り(ノウハウ蓄積)

仲間がきっちり固まっているゆでたまごが良い。茹で時間が短いと温泉たまごになってしまう。だからといって、いたずらに長時間茹でるのは、地球環境にもお財布にも優しくない。

両者を満たすための、適した茹で時間は何分なのか?

ここに気づいた時点で、自分がいままで真剣にゆでたまごを作ってきたことがなかった、ということに気がついた。何気にショックだった。

「知っている」と思っていたことが、「知っているつもりだった」ということに気づいたからだ。ある意味ラッキーと言える。ゆでたまごで気づくことができて幸運だ。

結局、調べてみたところ、10分茹でたらOKのようだ。ちなみに、8分位で温泉たまごができるらしい。

ちょっと不安になりつつ、10分のタイマーをセットして茹でる。10分後に人止めて、お水に晒しながら、緊張しつつ殻をむいてみた。無事にゆでたまごになっていた。嬉しい、できた。

自信へのつながり

この体験から、

  • 日常でも「知っているつもり」ということが多くありそうなので、知的好奇心や当然と思わないように気を付けつつ、日々の環境や自分の思考を観察すると、新たな発見がありそう。
  • 具体的な手順など、より具体的なシーンを想定すると、気づいていない点・検討漏れている点を把握できて楽しいし、ためになりそう。

という学びを得ることができた。

「次から何も考えずに、ゆでたまごを作ることができる人間になった」という事実は、自信の芽生えにつながった。

ゆでたまごと言って侮るなかれ。小さなたまごから、大きな自信を得ることができて、本当にラッキーだった。